
今日はことのほか雨もようの夜、まもなく締め切りらしい仕事の仕上げをしています。集めた資料や調べたこと、そしてなにより同僚どうしで相談しあったことを見なおしていると、プロセスの大切さと、最後の結果にたどり着くまでに踏んできたすべての段階のことを、あらためて考えずにはいられませんでした。
ずいぶん時間をかけたことは認めます。締め切りに間に合わないと思いこむほどでした。それでも、こうしてここまで来ました。いよいよ、提出まであと一歩。できることはすべてやり、出せるものはすべて出しきったと感じています。
この「大仕事」と、かけた膨大な時間から生まれたよいことは、プロセス全体の一つひとつの段階に、最大限の注意を払って集中できたという心地よい感覚です。ほめられたり、評価されたり、建設的な批判を受けたりすることだけが大切なのではありません。任された仕事をやり終えるのに欠かせなかった努力や一人ひとりの頑張りを、自分自身で認めることが大切なのです。つまり、私にとってこれは自分の問題になりました。仕事のいい加減さや、安易すぎる近道が大嫌いなのです。
だから少し前から、できるかぎりよい結果を出そうと努めています。少なくとも努めてはいます。以前は時間を半分にするためにわざと省いていた、必要な手順を一つも飛ばさないようにしながら。
そう、早く終わらせたくて急いでいて、たくさんのことを、たぶんいちばん大切なことを見落としていました。最近わかったのは、私がしてきたことの積み重ねと注いだ力が、ちょうど行きたかった場所まで連れてきてくれたということです。けれどもそれとは別に、そこにたどり着くまでの道のりのおかげで、私と同僚たちのあいだに信頼と尊敬しあう関係が生まれました。いやおうなく一緒に仕事をしなければならない人どうしでは、なかなかないことです。
長い前置きになりましたが、言いたかったのはこういうことです。最近、新しい仕事を始めようとするとき、茶の湯の儀式のことをよく思い出すのです(理由は聞かないでください。正直なところ、どう答えればいいのかわかりません……)。茶の湯(茶道)には、自分をみがく道としてのプロセス全体の大切さが込められています。そこでは一つひとつの動作が和と敬いを表し、すべてが「感じる」ため、そしてその場に完全に身を置くために行われるのです。
私にとってそれは、頭のなかにあるどんな計画についても、考えることと、そこから生まれる行動との、完璧なまとめなのです。もちろん、これはよい仕事のあり方についての私個人の考えです。というのも、正直に言えば、今の時代は集中を切らすのがとても簡単だからです。
茶の湯は、目的をあとまわしにして、手順そのものを中心におくことの大切さを知るための、もっとも意味深い例かもしれません。この茶の湯こそ、ふさわしいたとえだと思います。一つひとつの動作が心の調和という結果につながっていく。仕事をやり終えて、満足と前向きな気持ちを得たときに感じるのと同じ調和です。
では、茶の湯について少し思い出してみましょう。
この儀式のなかには、四つの基本の心が共存しています。
和(わ:調和)
敬(けい:敬い)
清(せい:清らかさ)
寂(じゃく:静けさ)
こうした歩みを通して、日本の茶は単なる飲みものから、内面へと誘い、客ともてなす人とを結び、今この瞬間を味わう体験へと変わるのです。
では、この四つの心は、本当に毎日の暮らしに生かせるのでしょうか? もしかすると、知らないうちに実践している人もいるかもしれません。考えてみましょう。

一つめの心「和」、つまり調和を日々の暮らしで実践するとしたら、今この瞬間にいる場所そのものや、一緒にいる人たちと関わりあうことかもしれません。
たとえば、家族のために食事を作るといった簡単なことを通して、まわりの環境(この場合は自分の家)とつながろうとすること。どこか「ぬくもり」を感じさせてくれるものを買ってみるのもいいでしょう。そのぬくもりは(言ってみれば)、お茶でもコーヒーでも、温かい飲みもののカップを両手で包んだときに感じるのと同じぬくもりです。そこからなぐさめを得て、こう言ってよければ、一種の「心の平和」を感じるのです。
二つめの心「敬」、つまり敬うことは、いちばん難しいかもしれません。ある意味で、相手を受け入れ、尊重し、思いやりと耳を傾けることを大切にしなければならないからです。
職場で、同僚の話を、押さえつけたり、さえぎったりせずに聞くことが、どれだけあるでしょうか? 言葉にできないような場面も見てきました……。それでもときには、そういうことも起こります。みんな話すことばかり急いで、聞くことは急がないからです……。だからこそ、話し相手にふさわしい敬意を払い、その人の尊厳を認めながら進むべきなのかもしれません。茶の湯の道具をすべて、このうえない繊細さと敬意をもって扱う茶人のように。簡単そうに見えますか? ところが、まったく簡単ではないのです。
三つめの心「清」、つまり清らかさとは、手をかけて大切にすることです。これは私たちが毎日実践しています。たとえば毎日の儀式のように家を掃除するとき。簡単で、無意識の動作ですが、終わると気持ちがよくなるものです。
四つめ、最後の心「寂」、つまり静けさは、たくさんの稽古を重ねたあとに、すべてを無理なく正確に行えるようになって、はじめて手にできるものです。営業中の混乱のなかで厨房全体を切り盛りしながら、落ち着きと正確さを「保ち」つづけなければならない料理人の仕事にも通じます。
さて、ほんの少しの良識をもってすれば、職場でもこうした心のいくつかを、もっと現実的なものに置きかえてみることができます。
会議の最中やコーヒー休憩のときに、私たちはある種のふるまいをします。ささいなことに見えて、先々の関係をなんとなく揺るがしかねないふるまいです。相手を尊重し、できるだけ「正直な」会話を心がけ、おたがいに耳を傾けあい、くだらない批判や、たやすく乗りこえられるはずの食い違いをめぐる激しい言い争いを避けるよう、努めなければなりません。
それでも、もっと居心地がよく、張りつめた空気のない職場というのは、かなわない夢なのかもしれません。けれども、よくよく考えてみると、それほど実現不可能でもなさそうです。
張りつめた空気のない職場や学校にめぐりあえた幸運な人は、私たちのなかにどれだけいるでしょう? たぶんほんの少しでしょう……。不満はいつものことです。
では、よい仕事のための環境を、どうすれば作れるのでしょうか? 多くの人にとってそれはただの理屈で、まっすぐ結果だけを目指します。だから環境は、ときに息苦しくても、ただの添えものにすぎないのです。しかも、ああ、なんという添えものでしょう……。
プロセスと、それにかかわる必要な手順をおろそかにすると、どんなものであれ、自分を支えてくれる人のつながりを広げることはできません。そして、心の面での恵みや、自分なりの満足も、おそらく得られないでしょう。
つまり私たちは、ほかの人と協力するにせよ、一人でやるにせよ、できるかぎりよい結果のための土台を、意識して整えるべきなのです。
教育の世界では、相互性という難しい力を育てるために、学びのプロセスに特有の一連の手順や取り組みが行われています。まさに、本当にうまく学ぶにはどうすればいいかを真ん中に置き、最後の結果のことは、そのあとで考えるためです。
それは、学ぶ人のやる気を引きだすために、一人ひとりに合わせた学び方を取り入れる段階です。そしてそのすべてに、先生や指導者、仲間といった導き手の絶え間ない支えが含まれます。彼らは、考えることや協力することを促すグループ活動を通して、最後の目標にたどり着く手助けができるのです。
そう、起こそうと思えば、起こるのです。少し前まで、私はおもに、目標を早く達成することを信じていました。けれども努力していても、ときにプロセス全体の美しさを忘れてしまうことがあります。そんなときこそ、茶の湯の手順を思い出すようにしています。最後の目標に向かうプロセスは、まさに小さな一歩一歩で作られていくからです。ふさわしい状況で、できれば気の散るもののない場で、意識して行う一連の動作によって。
皆さんはふだん、目標に向かって仕事をしなければならないとき、プロセス全体をどれくらい大切にしていますか? 何かの手順を踏みますか? それとも、できるだけ短い時間で手に入れるために、どんどん先へ進みますか?